この読書会を迎えるにあたって、カフェで一気に再読しました。
「神様のボート」
3時間くらいかな。ものすごく集中して読みました。
葉子さんが東京に戻ってくるくだり、思わず泣いてしまった。
家で読んでるみたいに、ぽろぽろぽろぽろ涙が出てきて止まらなかった。
うっかり泣いてしまうくらいリラックスできる場所でした。
ここで、いつか読書会を開きたいな。
ラストの解釈に悩み、どんな物語として読むか、を話しました。
(ここから先は、ねたばれありです)
「あのひと」に葉子は生きて会えたのか?
それとも死して、葉子の幻想の中で出会えたのか?
いずれにせよ、葉子にとっては、
自分が生きていても死んでいても、
会えたことに変わりはなかったのかもしれない。
でも、物語として、
死んでしまってから会えたのでは、あまりにも悲しすぎる。
葉子は、過去にあのひとを愛した記憶の中でしか生きられず、
目の前の現実では生きられなかった、ということになる。
葉子と草子が神様のボートに乗って放浪をしていた16年の間に、
「あのひと」が現実を精算し、
彼は彼で葉子を探し、毎日あのバーに通っていたのだと思いたい。
私は、そういう現実的なリアルな「あのひと」の物語があった、
ということにして読みたい。
その一方で、葉子の物語として、こんな風にも読もうと思う。
心のなかは過去に愛した人の記憶でいっぱいで、
ふわふわしているように見えたとしても、
実際には力強く現実を生きている。
でもうっかりなじんでしまうわけにはいかない。
桃井先生からもらった通帳には手をつけず、
親や親戚や従姉妹や友人に連絡をせず、
見知らぬ土地を転々としながら、
一人で子育てをし、働き、生きている。
幻想を抱きながら。
草子と空想の中のパパと三人で暮らした放浪の日々。
あのひとの忘れ形見でもある草子。
草子が家を出る、イコール、二人の生活が終わる。
それは、妄想のあのひととの三人の生活も終わるということ。
そして、神様のボートを降りるときがきたということ。
人生最大の喪失と絶望の、そののち。
神様のボートに乗っていた葉子はもういない。
草子だけが生きている救いだった葉子も、もういない。
あのひとに再会した別人の葉子がそこにいる。
日常になじみ、安心して慣れることのできる世界に生きている。
私がこの物語から受け取った、今回のメッセージ。
人が生きるということの中に、小さな死と再生、その繰り返しがある。
過去の自分が小さく死に、新しい自分がそっと誕生する。
人は、人生で何度でも生き死にを繰り返すことができる。
たとえば10年前の私は、別人なのです。
最後に江國香織さん本人が、
別の書籍でこの本について言及している箇所を引用します。
私の受け取った物語の主題とは全然違ったけれど(笑)
ご参考までに。
一度愛したら人は人を失わない。
これは『神様のボート』という小説のテーマでもありました。
そもそも「失う」は自動詞であるから、
主語である「私」が失おうとしない限り、
誰も、その恋愛の相手でさえーー
「私」にその人を失わせることはできない。
その人に会えなくなっても、あるいは別れてしまっても、
私はその人を失わない。