<鑑賞記録>映画「ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語」
「ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語」を観てきました。
以下、感想などなど。(内容に触れてますので、鑑賞前の方はご注意くださいね)
4連休の2日目。
周囲の友達がひとりならず絶賛していたので、これは観に行かねばと思っていた。
久しぶりに映画館で映画がみたかった、という理由もある。
しょっちゅうじゃなくてもいいけど、半年に1回ぐらい、映画館に行きたくなるのだ。
大きなスクリーンでみる映像、臨場感のある音楽。
普段のことはいったん置いておいて映画のストーリーにどっぷり浸かる。
今日もストーリーに浸りながら、
ああ、肉体を持ってこの世にいることのすべてがここにあるなあ、と感じていた。
きゃあきゃあ言いながら、4姉妹が走り回るシーン。
4人からあふれ出るエネルギーの流れがみえる。
突風が駆け抜けていくようだ。
生きてる!わたし生きてる!っていう、つぶつぶたち。
そのつぶつぶが、空間を埋め尽くす。
中盤は4姉妹のそれぞれの物語が進む。
どの人物に思い入れることもなくただ受け取り、ただ感じて観ていたけど、
べスがピアノを弾くシーンと、ジョーが書きまくるシーンで、思いっきり泣いてしまった。
悲しいシーンをみたのか、っていうぐらい、おいおい泣けてきて不思議だった。
その人がその人を発揮しているシーンって、深く心が揺さぶられるんだと思う。
印象に残ったシーン2つ。
ひとつは、ジョーとローリーの関係が二転三転するところ。
迷うジョーへのお母さんのアドバイスがすごくいい。愛されたい、というジョーに、それは愛ではない、ってちゃんと告げるの。
ジョーとローリーの間にはたしかに愛はあるんだけど、それは世間でいうところの男女の愛とはちょっとちがう。友達よりも近くて、兄弟でもない、一般的な型にははめられないとても個人的な愛だ。
あの形式で家族になれて、本当によかったね、って思った。
フレデリックに対しても、きっと既存の型にははめられない愛のかたちを貫いているだろう。ジョーならきっと。
もうひとつは、売れるためにストーリーを変えろ、と迫られているシーン。
あらためて自分がみてきた物語を振り返ってみると、売れるためにつくられたストーリーの型にはまったものってたくさんある。
無意識にそれがいいと思いこんできた型も思い当たる。それが型だった、ってわかるのに時間がかかってしまった。
これから私たちは、次の世代に本当のことを伝えていかないといけないね。
なにか「型」を採用するときには、本当に自分に合っているものなのか?疑ってみてからでも遅くないよと。
それ以外にもいろいろいろいろあるんだけれど、ここには書ききれない。
ぜひみて!そして話しましょう。
語られるためにあるような映画でした。