<旅の記録>日の出温泉in鹿児島
霧島の山の中にある日の出温泉
通称「きのこの里」
ここを訪れる前日の夜、
きのこの山派かタケノコの里派かで争った私と友人。
二人で看板を発見して、
「きのこの里って!ミックスしてる〜笑」
と、ひと盛り上がりして中へ。
こういうどうでもいいことを
おぼえてるんだよね〜。
そして、こういう細部に幸せが宿っている。
霧島神宮からの帰りに寄りました。
みごとな山々。
300円って!安すぎ。
脱衣所もお風呂もこじんまりしていて、
混んでたので、
なんとなく譲り合いながら入る。
お湯はあつめ。
外に水風呂とベンチがあってね
水風呂にざぶんと入ってから
ベンチで外気浴。
瞑想してめをあけると
この眺望。
ふわーっと自然のなかに溶けていく。
<鑑賞記録>映画「ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語」
「ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語」を観てきました。
以下、感想などなど。(内容に触れてますので、鑑賞前の方はご注意くださいね)
4連休の2日目。
周囲の友達がひとりならず絶賛していたので、これは観に行かねばと思っていた。
久しぶりに映画館で映画がみたかった、という理由もある。
しょっちゅうじゃなくてもいいけど、半年に1回ぐらい、映画館に行きたくなるのだ。
大きなスクリーンでみる映像、臨場感のある音楽。
普段のことはいったん置いておいて映画のストーリーにどっぷり浸かる。
今日もストーリーに浸りながら、
ああ、肉体を持ってこの世にいることのすべてがここにあるなあ、と感じていた。
きゃあきゃあ言いながら、4姉妹が走り回るシーン。
4人からあふれ出るエネルギーの流れがみえる。
突風が駆け抜けていくようだ。
生きてる!わたし生きてる!っていう、つぶつぶたち。
そのつぶつぶが、空間を埋め尽くす。
中盤は4姉妹のそれぞれの物語が進む。
どの人物に思い入れることもなくただ受け取り、ただ感じて観ていたけど、
べスがピアノを弾くシーンと、ジョーが書きまくるシーンで、思いっきり泣いてしまった。
悲しいシーンをみたのか、っていうぐらい、おいおい泣けてきて不思議だった。
その人がその人を発揮しているシーンって、深く心が揺さぶられるんだと思う。
印象に残ったシーン2つ。
ひとつは、ジョーとローリーの関係が二転三転するところ。
迷うジョーへのお母さんのアドバイスがすごくいい。愛されたい、というジョーに、それは愛ではない、ってちゃんと告げるの。
ジョーとローリーの間にはたしかに愛はあるんだけど、それは世間でいうところの男女の愛とはちょっとちがう。友達よりも近くて、兄弟でもない、一般的な型にははめられないとても個人的な愛だ。
あの形式で家族になれて、本当によかったね、って思った。
フレデリックに対しても、きっと既存の型にははめられない愛のかたちを貫いているだろう。ジョーならきっと。
もうひとつは、売れるためにストーリーを変えろ、と迫られているシーン。
あらためて自分がみてきた物語を振り返ってみると、売れるためにつくられたストーリーの型にはまったものってたくさんある。
無意識にそれがいいと思いこんできた型も思い当たる。それが型だった、ってわかるのに時間がかかってしまった。
これから私たちは、次の世代に本当のことを伝えていかないといけないね。
なにか「型」を採用するときには、本当に自分に合っているものなのか?疑ってみてからでも遅くないよと。
それ以外にもいろいろいろいろあるんだけれど、ここには書ききれない。
ぜひみて!そして話しましょう。
語られるためにあるような映画でした。
<読書記録&映画鑑賞記録>蜜蜂と遠雷
1週間かけて、小説を読み、
その週末に映画をみてきました。
小説は視覚に、
映画は聴覚に、影響大。
小説の「蜜蜂と遠雷」は、
新しい音楽の世界を、読んでる間、味わう体験。
その描写力にひっぱられ、絵がたくさん頭の中に浮かんでくる。この本を読んでる間だけは、妄想のなかで画家になる。
映画の「蜜蜂と遠雷」は、
登場人物の実際の視点から物語をみて、聞こえてくる音の幅が広がる体験。
さっきみたばかりの今は、耳が日常の音をたくさん拾ってしまっている。キーンという電子的な音の奥に、皿を片付ける音、誰かの足音、遠くの車の音。
きっと徐々にまた聞こえなくなるだろう。無意識にシャットアウトするから。
読書にせよ映画鑑賞にせよ、どちらも他の作品では得られない新しい体験でした。
<鑑賞記録>映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』
内容にふれてますので映画観る予定の人は、観てからどうぞ。
太宰治の人生は、
人間失格を書くためのものだった
神様は、そのために彼にいろいろなものを与えた
才能、女、富、名声、病気でさえ
書けない苦悩は、
パワーを出しきれない苦悩
自分の魂が望むものを
叶えてあげられない苦悩
太宰に振り回されているようにみえる3人の女たちも
太宰を自分の脇役にして
自分の人生を生きた
まっとうした。
そういう物語だ。
*
*
人は、本来のその人自身であれないとき
自分を見失う
太宰はずっと見失ってばかりで、
唯一、書いている瞬間だけが
自分の本来の生き方そのものだった
そして書き終わったあとは
また、自分を見失う。
*
*
人間失格を書き終えたあと、彼がまだ生きていたとしたら
どんな人生を生きたんだろう?
やはり、また、恥の多い人生を送り続けたのだろうか。
わたしが想像するに、血の気が失せて、肉欲はほどほどに、純粋な愛の深い人生になったように思う。
太宰治は、深い深い愛の人だ。
あれをみて、そう思う女性は少ないのかもしれないけれど、
わたしは、太宰の愛の深さに、その孤独に、その絶望感に、共感せざるを得なかった。
みちこを愛しているのも本当だし、
静子を好きだったのも本当だし、
富江をかわいいと思う気持ちも、
全部全部ほんとうだった。
その愛し方を理解できない人には
うまく現実をやり過ごすために
思ってもいない戯言を口にしたり
嘘をついたりした。
愛のエネルギーはすべて創作に注いだけど
注ぎ込んでも注ぎ込んでも
なかなか満たされなかった
それはやっぱり
太宰が自分を愛していなかったから。
人間失格を書き終えて、
彼は自分を許せただろうか?
恥の多い人生を、心の底から認められただろうか?
*
*
肉体を持つということは
不自由なことだ
思い通りにはなかなかならない。
時間がかかる。
でも、肉体があるからこそ
人と触れ合える
肉と肉に溺れる今世の楽しみは、甘美だ。
肉体があって、分離しているからこそ
1つになる喜びがある
その瞬間、意識と体がひとつになって、
天に溶けていく。陶酔。
その感覚はすぐに消えてしまうから
それを果てしなく追いかけたくなる。
3人の女たちは、その欲求をそれぞれのやり方で叶える。
どれが自分の好みか、
それとも、どれも違うのか。
あなたのお好みはどれですか?
<鑑賞記録>バレエ/ロミオとジュリエット_ROHライブビューイング
ライブビューイングにて、ロンドン新国立オペラハウスのバレエを観てきました。
ライブビューイングというのは、実際に上演された舞台を映画館で観られるというもの。開園前の舞台の様子から映されていて、休憩時間も劇場の様子が映っているので、実際に劇場に足を運んでみているような気分になります。
ライブビューイングで特筆すべきは、解説と出演者へのインタビューがついていること。それがあることで、より楽しめる構成になっています。
きっかけは、ディカプリオ主演の映画版ロミジュリをみたこと。
Twitterで感想をツイートしたら、友人がバレエもあるよと教えてくれたのでした。
映画のロミジュリは、とにかく青春…!って感じで、若い2人の惹かれ合う様に美しさを感じました。
でもストーリーは悲劇。最後は悲しみしかない。
それなのに、こんなにも人々に愛され語り継がれているのはなぜ?
ロミジュリが古典たる理由はなにか?
そういう問いを立てました。
97年公開のディカプリオ主演のロミオとジュリエットみた。主演2人の恋してる様子が本当に美しかった。でもさ、それより何より、なんでこんなにも長い間人々にも語りつがれてるんだろう?悲劇なのに。悲劇だから?いやー、気になる、それが一番気になるポイント!!#ロミオとジュリエット
— 大山江利子 (@eriielog) May 6, 2019
バレエのロミオとジュリエットは、言葉のないお芝居でした。
広く知られている物語だからこそ、バレエという言葉のない表現になったとき、それぞれの感情だけがダイレクトに伝わってくる。
以下、当日の感想メモ。
最終幕
仮死状態のジュリエット
肉体だけでは寂しい
魂のない肉体ってこんな風なんだ
魂と肉体がセットじゃなければ人間じゃない
カーテンコールで主役2人が出てきたとき、天国での魂の再会シーンのようにみえて
切なかった
美しい笑顔だったけど
やっぱり生きてるうちに会いたい
人は愛と喜びを感じるために生きている。魂だけじゃ、喜びは感じられない
生きていてこその、喜び。生きていてこその、愛。そのために圧倒的に自由であること。外側からも、内側からも。#ROHromeo
— 大山江利子 (@eriielog) August 24, 2019
『情熱をもって生きろ、肉体が死に至るまで。
その魂があるかぎり、愛と喜びを感じつくせ。
それを阻害する、ありとあらゆるものから自由になれ。』
遥かかなたから届いた、シェイクスピアからのメッセージ。
語り継がれている理由は、ここに人が共感するからなんだと思った。
ROHのバレエのロミジュリみて、いったん答えが出たところ。存分に生きなさいよ、っていうシェイクスピアからのメッセージ、って受け取った。#ROHromeo https://t.co/DuYkGgK7Qy
— 大山江利子 (@eriielog) August 24, 2019
ロミオとジュリエットを通して、古典について考えた。
みんなが知っている物語の枠組みに乗せて、その時代のエンターテイナーたちが届けたいものを届ける。みんなが知っているお話なのに、いろんな表現方法がある、っていうおもしろみ。みんなに知られている物語だからこそ、観客への説明はほどほどでよくて、いろいろチャレンジできる。観ている側も物語をがんばって追う必要がないので、ゆったり鑑賞できる。同じ物語の、その時々の解釈の違いや、表現方法の変化を感じるのはとても楽しい。
一方で、表現を受け取る私たちの肉体は、500年前とほぼ変わらないだろうし、感情の起こる仕組みもきっと変わっていない。だからこそ、シェイクスピアからのメッセージは、どんな表現方法であっても、ダイレクトに私たちに届く。
時代を超えても語り継がれている物語には、きっと普遍的なメッセージがあるんじゃないかな・・・?
ロミジュリが単なる悲劇じゃなかった、とわかったのは大きな収穫だった。びっくりするほど前向きなメッセージだった。
そんなわけで、これからは、古典を積極的に鑑賞しよう、と心に決めたのでした。
バレエはプレミアスクリーンで、
待合室がこんなに素敵なので、
アー写風にとりたくなった。満足w
<鑑賞記録>ミュージカル CHICAGO
ミュージカル/CHICAGOを観てきました。
3階席の端っこで、オペラグラスでしか表情のみえない席だったけど、
こんなことを味わいました。
・動きに表情がある!
・全員がぴたっとそろってるダンス!
・声の迫力、響きにぞくぞくする!
・テンポが良くて飽きない!
・歌い上げるってカタルシス!
・生演奏って大迫力!
ミュージカル。生演奏。実際に目の前で歌い踊る舞台。人の出す音、声、動き。ただただそれを感じるために観に行ってる。
— 大山江利子 (@eriielog) August 16, 2019
ミュージカル初心者なので、とにかく圧倒されっぱなしで終わっちゃいました。
次回はもうちょっとしっかりストーリーを頭に入れて、
他のミュージカルもいろいろみて目を肥やして、
何年か先のCHICAGO公演を観に行くぞ!!
そして、オペラグラス越しでも、米倉さんは美しかった・・・!