身体性のこと
ここのところ、「身体性」という言葉がずっと気になっている。
先日、「この世界の片隅に」という漫画を読んだ。
映画が公開されてからというもの、友人たちの間で話題にのぼっており、
映画と漫画の違和感について語る会が開かれたりもして、盛り上がっていたのだ。
評価の高かった漫画の方を読んでみた。
漫画なのに、なかなか読み進められない。読むのは割と速い方なのに、なんでだろう?と思っていた。
この世界の片隅に ようやく読了。戦時下を想像するだけで、胸がざわざわして、最後まで読むのだけで精一杯。映画どころじゃなかった。昔から戦争ものは苦手で、知る必要があるから読まねばと思うものの、身体が拒否する。とにかく怖いし、泣きたい気持ちでいっぱいだ。
— eriie (@eriielog) 2017年1月26日
そうだった、私、戦争もの苦手だったんだった。
想像するだけで戦時下をバーチャル体験してしまい、恐怖感と絶望で動機がするのだ。
皆とこの物語について語りたかったけど、だめだなー、こりゃ。いかんせん、ざわつきすぎる。動悸がしそう。これだけは、小さい頃から変わらない。自分の前世に戦時下に生きた人がいたんじゃないかとすら思ってしまう。それぐらい、身体が全身で拒否するのだ。#この世界の片隅に
— eriie (@eriielog) 2017年1月26日
というわけで、映画は観ないまま、今に至っている。
この、身体の奥底からくる「ざわざわ感」。
小さいころ、学校で戦争のことを扱うときには、必ず感じた。
戦争のことを知る必要があるのはよくわかるが故に、
このざわざわを感じるのが申し訳ない気持ちも、必ずくっついてきた。
人間の防衛本能なのだと思う。戦争という危機を回避する力。
想像することさえ、身体は拒否するのだ。
人間の五感は、危機を回避するためにできたと聞いたことがある。
たとえば嗅覚。
花の良い香りを嗅ぐ力が落ちても、腐っているものは臭いと感じるようにできている。
たとえば味覚。
高級フレンチの良さはわからなくても、冷蔵庫の奥で腐りかけてているものはまずいとわかる。
腐っているものを食べたらお腹を下してしまうからだ。
これが身体の危機。危機を回避するのは、人間の本能だ。
そして、先日の読書会でも、似たような体験をした。
約2時間程、生命倫理について皆で話した後に、充分な議論がなされないまま既に世界では倫理が侵されつつあることを知った。具体的な内容は言及を避けるが、社会に障害者は不要だ、とのメッセージにようにも解釈できるようなことが、バイオテクノロジーの進歩の裏側で、起こっていた。
ぞっとして、寒気が襲ってくる感じ。両手で両腕を思わずさすった。
身体性。
— eriie (@eriielog) 2017年1月29日
なにかに触れたときの、気持ち悪さ、怖さ、もやもや、ざらっとする感じ。
危機を回避するための、本能。
クローン羊のドリーが作られた理由にぞっとした感覚。
頭で考えるより先に、そこに危機がある、と反射的に身体が感じる。
これって、すごい能力だよね…。
生命倫理とバイオテクノロジーの間で起こってくる様々な問題について考え始めたばかりで、まだ答えは出ていないけれど、この感覚を大事にしようと思った。
危機を回避する能力は、もともと人間がもっている本能なのだから、ぞっとする感覚を感じたら、きっとそれは倫理を犯している。
重くなっちゃったな。閑話休題。
そんなわけで、このところ、身体で感じるものに重きを置いている。
身体そのものも大事だな、ということで、今年は身体づくりも始めた。
(#身体づくり でつぶやいてます)
まずいものだけじゃなくて、おいしいものもやっぱり味わいたい。
危機だけじゃなくて、嬉しい、楽しい、も全身で感じたい。
人間が魂だけじゃなくて、なんで身体という物質があるのか?とか、
また頭で考えそうになるけど、それは散歩しながら考えよう。