<鑑賞記録>ボストン美術館の至宝展
雨の水曜日、ボストン美術館の至宝展へ。
感想を書こうとあれこれ見て思い出してみるものの、やっぱり図録買ってくればよかった・・と後悔するほど、古代エジプト美術から現代アートまで、時代も地域も振れ幅が大きくて盛りだくさんの内容でした。
私が気になった絵は以下の7枚。これらを中心に思うままに書き連ねます。
1.与謝蕪村「柳堤渡水・丘辺行楽図屏風」
2.英一蝶「涅槃図」
3.アルフレッド・シスレー「卓上のブドウとクルミ」
4.ファン・ゴッホ「子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」
5.ジョージア・オキーフ「グレーの上のカラー・リリー」
6.チャールズ・シーラー「白い納屋、壁、ペンシルバニア州バックス郡」
7.村上隆「If the Double Helix Wakes Up...」
スタートは古代エジプトのあまりに遠い過去の時代の美術品の数々の鑑賞から。「どうやってつくったんだろう??」「どんな人達がつくったんだろう??」謎が多い古代に思いを馳せた後、かっこいい龍(でも権力の象徴なんだって)のある中国美術の部屋を抜け、日本美術の部屋へ。歌舞伎の看板や浮世絵もあるなか、(個人的には)日本人ぽくないと感じる絵柄の絵の前で「そっか昔から人は多様であったのだ」と思う。
そして観覧前から気になっていた英一蝶「涅槃図」。釈迦入滅の絵だそう。こういうのをみると、やっぱり仏教の成り立ちなども知っておかねばなあ、という気持ちになる。日本の宗教画って、そういえば観るの初めてかも。
日本美術で一番心惹かれたのは、与謝蕪村「柳堤渡水・丘辺行楽図屏風」。写真だと小さくて顔がわかりづらいんだけど、人の顔がとってもかわいい。さわぐちけいすけさんの絵に似てるなー、とこっそり思う。とても好きな絵柄。
カフェで作業中、隣に座っていたおじさんの紙が私のスペースに侵食してきた。見たら手書きの年間予定表全てに「休肝日を作る!」と書いてあった。おじさん頑張って。(パソコン持ってなかったのでアナログ絵) pic.twitter.com/ZvwT0UXjYL
— さわぐち けいすけ (@tricolorebicol1) 2017年7月21日
(実際にはこの部屋までで、かなり長く時間を使った。まだ地下なのにー、この後体力持つのかしらわたし?と若干不安になりつつ先に進む。)
1階に上がるとそこはフランス絵画の世界。古代エジプト美術から比べると19世紀の西洋絵画はとても身近に感じる。シスレー、ピサロ、モネ、ルノワール、と印象派の画家が続き、なかでも今回は、シスレーの静物画「卓上のブドウとクルミ」が印象に残った。ここ最近モチーフとしての胡桃が好きだから、っていう全くもって個人的な理由だけど、くるみがとてもおいしそう、かつ、かわいさにあふれていた。また、モネに戸外での制作を勧めたというブーダンの海景画も素敵だった。印象派直前、って感じだろうか。そしてこの展示のメインのみどころでもあるゴッホのルーラン夫妻の肖像画にたどりつく。この二枚は耳切事件のビフォアアフターを表してもいるわけだけど、肖像画は描かれた本人がどんな人であるかを描くものでもあり、描いた人の世界の見え方を表すものでもある、ということをものすごく感じる2枚だった。
アメリカ絵画の部屋では、ジョージア・オキーフに目が釘付け。このところ花の形状やその目的、理由を考えることがあって、花がとても気になった。その姿形、美しさの理由をいろいろと思う。
(それにしても、あとから公式HPなどを観ると、この部屋にはもうちょっとちゃんと見ておけばよかったと思う絵がある。古代エジプトをもうちょっと軽く見て、この部屋に体力を温存しておけばよかった。時間配分が難しい。)
2階へ。写真に見えない写真たち。特に、チャールズ・シーラー「白い納屋、壁、ペンシルバニア州バックス郡」は、描画かと思った。きれいな線、面、図形。
最後は現代美術の部屋。ウォーホルはみたことがあっても、村上隆の絵をちゃんとみるのは初めてだと気づく。日本を代表するアーティストなのに今までみる機会がなかったので、この機会にじっくり観る。インターネットの世界のようにもみえるし、今自分がおかれている状況にもみえるし、現代社会への皮肉も感じたりする。同じ時代に生きている人の絵だから、意味はわからなくても伝わってくるものが多い気がした。
ふう~、古代から現代まで駆け抜け、ボストン美術館の紹介映像をみて終了。ボストンは美しい街のようです。アメリカの東側に行く機会があったら、ボストン美術館に行ってみよう。
読書会を開催しました*2017JUL『沼地のある森を抜けて』
7月の水曜日の読書会を開催しました。
今回は私含め4人でお話ししました。
課題図書は「沼地のある森を抜けて」梨木果歩。
2時間のフリートークのなかで、「生命とは」「自分とは」という大きなテーマから、ウィルスや菌などのミクロの世界まで、遠くからも近くからも自由自在に視点が動きました。異文化間における死生観の違いの話、ウィルスに支配された身体の話、出てくる単語は、大島紬やアートやアルチンボルトやナウシカやもやしもん…などなど、多岐にわたりました。が、なかでもやっぱり「発酵」がキーワードに。
読書会の後、下記の三冊を読みました。
まずは真ん中の『田舎のパン屋がみつけた「腐る経済」』。「沼地~」を読書会の課題本にしてから、発酵関連の話題が目にとまるようになり、鳥取で天然菌でパンやビールをつくっている「タルマーリー」さんを知りました。そのオーナーである渡邉格さんの著書です。経済が「腐る」ってどういうことなんだろう?って興味が湧いて読みました。
右側の『ゆっくり、いそげ』はクルミドコーヒーオーナーの影山さんの著書。最近よく二号店を利用している関係で読んでみました。前述の本を読んだ後もそうだったのですが、自分の今の仕事の姿勢を改めて考えなおすきっかけになりました。頂いている参加費は妥当だろうか?とか、支援し合う関係になっているだろうか?などなど。
最後に、左側の本。こちらは、まだ読んでいる途中なのですが、タルマーリーさん繋がりで知った「発酵デザイナー」小倉ヒラクさんの『発酵文化人類学』。著者がこの肩書きに至った経緯がとても興味深く、上記二冊に続けて「働く」ということをますます考えています。
次回は「働く」がテーマの読書会をしようかな。
開催しました*「恋」がテーマの読書会
今月は「水曜日の読書会」とは別に、とある日曜日に持ち寄り読書会を開催しました。
テーマは「恋」
私、恋をするのがとても好きです。
でも、必ずそれは終わってしまう。それが悲しいし寂しいな、と思っていました。でもこの日、長年の謎だった「恋はなぜ終わるのか」に、私なりの答えが出ました。そして「恋は愛には変わらない」説も生まれました。(あくまで個人的な私の見解です)
世の中に通説としてある「恋のゴールが結婚。時間を経て愛に変わる」は、嘘っぱち。愛は圧倒的に今目の前にそこにあり、恋は瞬間瞬間に生まれては消えていくもの。(ここから先は、かなり熱く語ってしまうので、気になる人は会ったときに直接聞いてください。)
恋愛と結婚は別、って言うと打算的な人だな、と思われてしまう昨今ですが、私は、やっぱりそこは別、という考えです。そもそも恋と愛が別物。そして、素敵な結婚生活が続いている夫婦の謎も解けました。
参加者さんの紹介してくれた本、披露してくれたエピソードや感想が、どれもこれもその人らしさを表していて、やっぱり読書会は楽しい。場所にちなんで、ウォルナッツ・ブック・クラブ として次回以降も開催しようと思います。
100%ここにいる、ということ。
奥多摩に向かう電車の中。
ふと気づいたら、窓から見える景色が一面グリーンに変わっていました。
この日はバーベキューに誘われて、奥多摩まで2時間の移動。
日曜のとても気持ちのよい朝でした。
電車の中って、ものすごく集中できるんですよね。思考が進む進む。
頭の中のテキストを二時間ぐらいかけて、整理整頓。そのときちょっと悩んでいることがあったのですが、それを人に話せるまでには整理できました。
そんなわけで、実は、目的地でなにかすることよりも、目的地に着くまでに考え事にふける方がとても楽しい、ということが多い私。
でもこの日は、考え事がひと段落して、ふと顔を上げると、こんな景色がずっと続いていたのです。がんばったねー、おつかれさま、って言われてるみたい。何のご褒美かはよくわからないけど、思いがけないギフト、って感じでした。
さてさて、ここ最近、青梅方面にご縁ができて、青梅線に乗ることが増えています。武蔵野線もだいぶ慣れて、乗換駅の西国分寺まで近く感じるようになりました。
こちらがそのご縁のできた庭。
ブラックベリーの実。熟すと真っ黒になるそう。ブラックベリーのリキュールでつくったカクテルがのみたい。。
こちらはラズベリー。もぎたてをほおばる。新鮮すぎてやばい。
この手の持ち主が作ってくれたラズベリージャムをおみやげに頂きました。
ぐんぐん、にょきにょき、って感じのラベンダー。
満開。エネルギーに満ち溢れてる。香りもすごかった!
こちらの庭には手仕事のワークショップに伺っています。お昼ご飯をはさんで朝から夕方まで、染めたり編んだり。庭にある自然の材料をつかって、作業作業作業。手を動かします。
手作業のいいところは「今ここ」に集中できるところ。自分100%で存在できる。せっかく自然がたくさんあって満喫できるのに、思考を働かせすぎててしまって「今ここにいない」のはすごくもったいない。
この「今ここに集中する」という感覚は、音楽を聞いているときに似てるな、と思います。前後にあったことはいったん忘れて、そのとき流れている音楽を聞く時間に身を任せると、その時間がとても楽しくなってきて、音楽にのめりこめる。
と考えると、あちこち思考を錯綜させずに今ここに集中することで、人生がさらに楽しくなるような気がします。
こういう自然の多い場所だと、自然のもつ存在感に圧倒されて、半ば強制的に「今ここ」に集中できる。手仕事の庭に通う理由は、この感覚をつかみたいからなのかもしれません。
鑑賞の前に~レオナルド×ミケランジェロ展
三菱一号館美術館で開催されている「レオナルド×ミケランジェロ展」。よく知られている画家なので、展覧会を観に行く前に予習しておくことにしました。
ダヴィンチやミケランジェロぐらい有名な場合は、鑑賞者がここまでは知っているだろうという高めの想定のもとキュレーションされていそうなので、予習しておいた方がより楽しめるのでは?と推測しています。
ちなみに、先日鑑賞したアルチンボルド展は「この画家を知らない人が多かろう」っていう想定のキュレーションになっていたようで、展覧会自体が画家の生涯をしっかり説明してくれていて、予習していなくてもとっても楽しめました。(実際、アルチンボルトの予習って、図書館に行っても資料もみつけにくいし、どこから手をつけていいかわからないですしね。)
美術館側でも、より展覧会を楽しめるような予習できるイベントが企画されています。美術館が企画しているものだと、無料だったり、有料でも1000円ぐらいだったりとお手頃。こういう講座って「朝カル・芸大の先生が講師・有料で4~5000円」っていうのしか知らなかったのですが、最近、こういうのがあることを知って活用しはじめました。申込開始が早めなのと、会期の最初の方で行われていることが多いので、行きたい展覧会が始まる前にイベントをチェックしています。
そんなこんなで、先日初めて美術館主催のレクチャーに行ってきました。
この日は嵐のような大雨の日だったのですが、後ろの方の席まで埋まっていました。
ここにもね、いつもこの方達は何をしている人なんだろう??と常々不思議に思っている「平日の昼間に美術館にいる年配の方」がいました。しかもたくさん!
いわゆる、美術ファン、という方達なのかな。
レクチャーも、美術の知識が前もってある人達に話してます、って感じで進んでいきます。展覧会のみどころ、というのは、何をポイントにキュレーションしたか、ということを教えてくれます。今回は、「素描」の比較、「レダと白鳥」という同じテーマでの比較、などなどで自分で絵を描く人におすすめの展覧会なのかなー、と思いました。正直、私はあんまり興味がわかない分野。わかりやすくホームページにも載っていたので、これも読んでから行ってみようと思います。
本展の見どころ
→ レオナルド×ミケランジェロ展|三菱一号館美術館(東京・丸の内)
見どころそのものにはあんまり興味が持てなかったのですが、このイベントに参加したことで、全く別の発見がありました。そもそも展示されている絵は、500年以上前のものなので、本当にその画家が描いたものなのか、証明できないこともあるそうなのです。そういう場合キャプションには、例えば「レオナルド・ダヴィンチ(帰属)」と書かれます。”「~という画家が、絶対に確実というのではないが、現在のところ実作者と見なされている」という意味合い”なのだそう。「展示されているものは全て画家本人の作品だ、本物だ」と思いこんでみていた過去の私よ、さようなら。
先日のアルチンボルト展は「~に帰属」「~にもとづく」といった絵画が多かったのですが、このイベントの後に初めて行った展覧会なので、その点も注目しました。感想は、アルチンボルトという画家を中心にして生まれた表現の有機体なんだなあ、画家本人を中心に波及してうまれた表現活動が、時代を超えて今目の前にあるんだなあ、という感じ。
その作品が画家本人のインスピレーションによるものか、画家からもらったインスピレーションで他人が描いたものなのかは、表現を味わう、という点では、私にとってはあんまり関係なかったです。どちらかといえば、アルチンボルトとの影響力をみた、という点で、時代のダイナミズムが伝わってきて、却って良いようにさえ感じました。その作品がアルチンボルトのものなのか他人が描いたのか、真贋はこの際どちらでもよかった、というのは、とても不思議な感覚でした。
さて、そんなこんなで、鑑賞前の予習はまだまだ続きます。後は、ダヴィンチとミケランジェロの個人の年表をざっとおさらいしてみることに。鑑賞前の予習もこれから深めていけそうで、楽しみだなあ。
イベントにもちらっと登場していた、館長の高橋さんの記事もおすすめ。
レオナルド編
<鑑賞記録>アルチンボルト展
台風一過の7月のある日の午後、アルチンボルト展へ。
この展覧会で、初めてアルチンボルトという名前を知りました。はじめまして、でこんなにもその人の人生を知るって、なんだかすごいことだなあ、なんて思いつつ、その日は誰かとすごく話したい!という気分だったこともあって、自分の人生ヒストリーをこんなにも丁寧にキュレーションしてもらっているアルチンボルトに嫉妬(!)したりしました。
16世紀後半。ハプスブルク家の皇帝につかえたアートディレクター、アルチンボルト。頭がよくって、好奇心旺盛。自分の表現をパッションのままに出すっていうタイプではなくて、自分の引出しにたくさんしまってある個性的な表現をスポンサーから求めに応じてスマートに出している印象。表現の中にいろんな要素が混ざっています。皇帝を讃える要素、当時の自然科学の知識、ユーモアや皮肉…などなど。カリカチュアや静物画のはしりでもあり。当時の最先端だったのかなあ。
四季と四大元素の部屋では、鑑賞にたくさんエネルギーを使いました。近くで見ると精細な静物画、遠くで見ると人物画。目や口が、目と口ではないもので表現されています。アルチンボルトを真似た他の画家の絵もあったけど、それらは中途半端で、目や口はそのまま描いてあったり、バランスが悪かったり。アルチンボルトのすごさがわかります。
個人的には、「大気」と「冬」に惹かれました。
「大気」は、画面全部が鳥!っていう、その迫力。意味なく描かれているわけではない鳥たち。「冬」は近くでみると枯れ果てた木なのに、遠くからみると、成熟した威厳のある人が立ち上がってきてハッとする。マクシミリアン二世の寓意像なんだとか。
2時間かけてじっくりみて疲れたので、近くの上島珈琲へ。テラス席でぼんやりしつつ、振り返り。とりいそぎ、Twitterにあれこれ感想を留めておきます。
500年以上も前のものだから、作者がわからないものも多々。アルチンボルト(?)って書いてあったり。本人かもね、みたいな感じなのかな。あとは、作者名のあとに「帰属」とか、「もとづく」とか。別の美術展のギャラリートークで覚えた知識が役に立ってて、こういう積み重ねが楽しいなあ。
— eriie (@eriielog) 2017年7月5日
そういえば、美術館に来ている人の中には年配の人が多いのが以前から気になっていました。平日の昼間にふらっと観に来れるって、どんな人達なんだろう、って。(いや自分も傍からみたらそうなんだけど)もしかしたら、若いときから展覧会をみていて、みればみるほど知識が積み重ねられていって、自分なりの美術史が形成されていて、それが楽しくて、趣味が続いている人が多いんじゃないかな、と、ふと思いました。
私もこれから積み重ねを楽しもう!と、次の展覧会の予習のため、この本を購入。時系列で並んでいるだけでもなく、単に画家の説明が並んでるだけでもなく、巨匠視点で書かれているところがおもしろそうです。
<鑑賞記録>椿姫~METライブビューイング
2017年後半のスタートに際して、前半の振り返りをしています。
今年前半は「なにかを鑑賞して同じものをみた人と話す」っていうことをたくさん行いました。鑑賞した後に誰かと話すと、ちゃんと感想が自分の中に残るのが、とってもいいところ。
ちなみに「なにかを鑑賞して同じものをみた人と話す」ことの良さを私に教えてくれたのは、このブログによく登場する友人のせいこさん。せいこさんが企画する「〇〇をみてあーだこーだ言う会」では、古今東西のいろんな表現に触れさせてもらってます。ことほぎラジオのパーソナリティーでもあります。 彼女と話していると、自分の中の表現欲がむくむくと湧いてくるのが不思議なところ。
前半はブログに書くことを意識していなかったので、あんまり記録を残してないのですが、これは外せない!っていうのがオペラ。
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたオペラを、日本の映画館でみる、というもの。オペラ初心者には、リーズナブルに本物に触れられるよい機会でした。
こちらも能と同様に友人のせいこさんが”『椿姫』を観て感想をあーだこーだと話す会”を企画してくれて、参加しました。こんなのやりたいなー?とせいこさんがつぶやいていたのをいち早く察知して、いくいく誘って―と、猛アタック(笑)
そんな機会でもないかぎり、ちゃんとオペラみよう、って自分からは思わないんだけど、時代を積み重ねて続いているという意味での「古きよき」表現に触れたい、という欲求は元々あったのです。(こういう自分にとっての素晴らしくよい機会を察知する能力だけは秀でてるなー私、と書きながら気づく。。)
音楽に詳しくてオペラをよくみているゆかこさんがナビゲーションしてくださって、鑑賞前にみておくといい動画や、あらすじを教えてくれました。わたし、そういうとこ素直なので、ちゃんと予習はしていきます。当日、舞台に集中したいので、準備はたいせつ。
オペラというのは演出によっても随分と変わるみたいで、今回のはかなり斬新な感じだったそうです。
私のそのときの感想。
人から見たらあほらしい物語でも、自分にとっては魂のためにやってることで、自分にとっては他人が思うのとは全然違う物語だったりすることってある。椿姫のヴィオレッタとアルフレッドも、本人達は本気。
— eriie (@eriielog) 2017年4月9日
中学生のときに椿姫を本で読んだことがあって、そのときは主人公たちの気持ちがさっぱり理解できなかった、っていう過去があります。なんで自分の思い通りに生きないんだろう?ばかじゃないの?って中学生の私は本気で思っていました。
今回、大人になってこの物語に再会しても、その感想は変わらなかった。
でも、本人達は本気だからこそ、その本気のさまが、美しい。
それは、舞台だからこそ伝わってきたことでした。
第一幕で、ヴィオレッタが愛を受け入れるシーン。その表情にはっとした。Love。その瞬間、私の魂は愛することを求めているんだとわかった。男女の愛については冷ややかな気持ちになりがちな昨今の私だけど、その日、自分の目の前に一緒にいる人とLoveを作り出すことはできる。
— eriie (@eriielog) 2017年4月9日
やっと先がみえたよ…。ここに来るまで、長かったなあ。ようやく決められた。何のために生きるか、が決まったから、いつでももう迷わなくて済む。う、うれしい…!!
— eriie (@eriielog) 2017年4月9日
椿姫、やっぱり本物を観に行きたくなってきた。グルーヴを感じたいのだ。
そう、私は椿姫をみて、自分は「LOVE」をつくりだすために生きているんだ、って思い出したんです。もしくは、そこにある「愛」を見出すこと。そして十分にあふれさせること。
なんのために生きてるんだろう?って答えのない問いに、ようやく答えが出た、画期的な一日でした。本当にうれしかった。この指針が胸の中にいつもあります。だから、私にとってこの日は、書きとめておかねばならない一日なのでした。
そして、これを観終わった後にあーだこーだした時間こそが「LOVE」だったなあ、と今思い出してみると、そんな風に思います。さっきふと思い出したそのときの情景。
観終わった後のあーだこーだもとっても楽しくて、もう3ヶ月も前のことなんだけど、誰がどこに座ってたかまで思い出せる。釜焼のピザがおいしかったこととか、手がべとべとになって、それに気をとられちゃったこととかも。で、お手拭きください、って店員さんに行ったら同じくピザ食べてた友達に「そうそう、私もほしかったー」って感謝されたこととか(笑)そういうどうでもいいことを覚えてるんだよね、なんでだろ。そういうところ、旅っぽいなあ。
愛はそのテーブルにあふれていました。物語への愛、音楽への愛、目の前にいる人への愛、一緒に観た人への愛。聴きあう時間への愛。ほしかったものはすでにそこにあったね、っていう青い鳥ではなくて、もうすでにそこにあった、ってことに気づけたっていうことが最大のギフトなのでした。
意識してもしなくても愛はそこにあるけど、意識するといいことがたくさんあるのです。うれしさも増すし、思いやりも生まれるし、尊敬もできる。だから、愛に意識的に生きたいな、と、今はそう、思っています。そんなターニングポイントになった椿姫、の私にとっての物語でした。
※追記 ゆかこさんからみた「あーだこーだの会」