読書会を開催しました*水曜日の読書会2017.Mar『とはずがたり』
3月の水曜日の読書会、「とはずがたり」で開催しました。
古典を読むなんて、本当に久々で、「ひしめく」「あさまし」「あはれ」「むつかし」とか、高校生で古典を習ったときには特になんとも思わなかった古文単語が、今も現代に残って伝わっていることの深遠さにくらくらします。
初めに、相対立する二つの感情がある、との感想からスタート。
・あこがれとうらやましさ
・あほらしさと怒り
・同情と共感
そして、作者の胸中は身近に感じながらも、当時の女性がどんな暮らしをし、どんな時代認識があり、なにが常識とされる中で、これを書いたんだろう?と、皆で思いをはせました。
一夫多妻制の世の中なんて、とも思うけれど、それは、生まれてくる赤ちゃんの死亡率も高く、出産した女性の5人に1人は無くなっていたりする背景があることや、重婚もままあったりしたこと。
そもそも現代の結婚は恋愛をベースにしたロマンティシズムありきだけれど、実は人間の実態はそうでもなくて、もっとプリミティブなんじゃないかとか、
いつもいつも座って庭をながめている毎日で、部屋の中では膝で歩き、視線はいつも子供の目線ぐらいの高さで、外出で正式な衣装で外出するときには重たすぎて人の手を借りねばならず、自分の身体がいったいどこまでが自分なんだろう?って感じだったんじゃないかとか、
お姫様って、友達いなかったんだね、宮仕えしてる女房達の方が楽しそうだし、実は出家しちゃった方が楽だったんだ、とか。
ミステリハンターな気分で、あれやこれや妄想しました。
甘いものとコーヒーと本、最高の組み合わせ。
— eriie (@eriielog) 2017年3月15日
二条さんの時代も、甘酒と源氏物語、でさいこーだな、とか思ってたのかもね。
現代とは違う環境や習慣や思考を想像しつつ、二条さんの愛すべき人となりを味わう、そんな会だったのかな。
参加者さんの後日のツイートより。
とはずがたりの二条さんは自分の人生を振り返る時に源氏物語の型を採用した。でも、生身の女の人だからそこに収まることはできなかった。自分が放縦な紫の上であることに、二条さん自身はいつ気づいたんだろう。気づいたから書いたのか、書きながら気づいたのか。
— 八田吏 (@hachicca) 2017年3月16日
読書記録『14歳の子を持つ親たちへ』
土曜日の午前中。
家のなかをひととおり整えた後、この本を読了。
先日の読書会でとりあげた「街場の文体論」に引き続き、内田先生関連の本。
そのときの参加者さんがおすすめしてくれた本の内の一冊です。
本来のコミュニケーション、語彙の獲得、前思春期、身体性、ルーティンの大切さ、などなど、興味深いワードがいっぱいの本でした。
ここ最近、物事を、まるごと聞く、まるごと読む、っていうことを意識的にしているので、感想ではなく、気になった部分を抜き書き。
同じところ興味持ったーという方いたら、今度あったら声かけてくださいませ。
P53
名越:(前略)・・ コミュニケーションとは、自我をはっきり持ってそれで自分の意見をはっきりと発信できることだってことになっているんですよ。
内田:むしろ逆ですよね。何を言っているのかはっきりわからないことを受信する能力のことでしょう、コミュニケーション能力って。聞いたことのない語を受信することによって「あっ、こういう言葉が存在するのか」という風に驚くことを通じて語彙だって獲得されるものなんですから。
P83
名越:昔の方がもうちょっと、「情緒をうまく使いこなせるひ人が知識人である」という概念が、日本に共通理解としてあったんじゃないか、そういう意味で言ってるんですけど。
内田:僕も一番感じているのはそこです。何で知識人という人たちはこんなに情緒の豊かさってことに関して無関心なんだろうと。どう考えてみても、知性というのは情緒の豊かさだろうと僕は思っていたんですよ。物事に対してびっくりしたり、感動したり、不思議に思ったりという能力ね。
P88
名越:(前略)・・だからね、オバサンっていうのは実は・・・。
内田:子供なんだ。
名越:うん。実は前思春期で・・・思春期にもいってない前思春期で、止まってしまった大人。
P108
名越:僕なんかももちろん色々悩んだり苦しかったりってことがあるんですが、最後にそれを受け止めてくれるのは身体なんだっていうことが、実感としてあるんですよね。論理的じゃないんですけど、脳は結局のところ、時間というものを受け取れないんじゃないかっていう気がしていて。
内田:そうなんです。脳って基本的には無時間モデルなんですよ。
P109
内田:これ、よく逆に受け取られているけれども、最終的に人間の攻撃性をドライブしているのは身体じゃなくて脳なんですよ。身体っていうのは、どこかで抑制してるものです。狼同士闘っている時でも、片方の狼が「負けました」って喉をさらしちゃうと、いくら噛もうとしても喉を噛めないっていう、コンラート・ローレンツの説がありますけども、人間の場合も最終的に攻撃性を抑制するのは身体なんだと思うんです。勘違いしている人多いけど、身体が攻撃性の培地であって、理性がそれを統御しているというのは嘘なんです。
P189
名越:この頃ほんとに思うのは、母性って最初からあるもんじゃなくて、やっぱりトレーニングして身につけていくしかない、ってことです。
P194
名越:日常生活の所作というものは身体に通じてるから、そういうもので人間関係が上手くいったりするんですよね。何か抽象的なことを言うよりも、きっちりカギを閉めるとかね。そういう反芻だけで常々、身体的に学んでいくってすごきあるんですね。
内田:親子関係は期間限定の、テンポラリーな関係で、終わりは必ず来る。つまり子供に対して親が影響を与えたりとか、ある程度言葉が届く時間って限られているんです。だから、その時間に届く範囲のことを考えて、その中でできるだけ具体的な提言をするということに尽きると思うんです。
1月の読書会開催、その後のはなし
私にとって読書会は、もはやライフワークになりつつあります。
仕事でも生活でもないけど、生きていく上で必要なこと。
まず、ひとりで本を読み、その世界でひとときを過ごす。
その後、同じ本を読んだ人同士が共有できる世界をつくって、ひとときを過ごす。
自分がひとりでみてきたものや、潜った感想、いってみたけどよく理解できなかったこと、その世界で感じたものを日常に持ち帰った経験、そんなことを話します。
この会をひらくことの個人的な目的はあるけど、それはまたいつかの機会に。
1月は、この本を読みました。
そのときの開催報告&感想はこちら。
読書会そのものの高揚感が消えた後も、自分の心の奥底の深いところに残った言葉は、『充分に生きる』でした。以下、本文より引用します。
辛かったり、苦しかったり、面倒だったりするのは、充分に生きていない状態だからです。そして、充分に生きていない状態にあると、同じように充分に生きていない人ばかりがまわりにいるので、世界中はこんな感じだと思ってしまうのです。
この言葉に、ぐさっときて、読書会後の一ヶ月、私は今、充分に生きているだろうか?できることならば、自分本来の姿で、自分の人生を充分に生きたい。なんとなく不完全燃焼なのは、もういやだなあ、と思いながら日々を過ごしたのです。
そんな流れで、その後の私のTwitterはちょっと青臭い言葉も綴っていたりします。
河瀬監督の言う、魂のために、が心に刺さっている。
— eriie (@eriielog) 2017年2月12日
魂のために、私は何をしている?
魂が求めてることに従う、そういう日々を送りたい。
こんな年になっても、まだこんなことを思うなんて、とも思うし、人生の後半をスタートしたばかり、とも思う。
— eriie (@eriielog) 2017年2月12日
まだ、これだという道は決まらない。決まらないけど、もう半分歩いている。歩いてきた道が私の道だ。
道って・・・!でもそれでしか表現できない。
この本を選んだのは全く別の理由だったけど、結果的には、年のはじめに自分の生き方について考えることになりました。季節的になんかよかったような。その結果、新しいことを学ぶ後押しにもなったりしました。
そんな1ヶ月を過ごして、読書会はその場で話して終わりではなくて、その後の生活にものすごく影響が出てくることがわかりました。これは、私の場合。そして、今猛然と書いているのは2回目の読書会の影響であることは言うまでもありません。
読書会を開催しました*水曜日の読書会2017.Feb『街場の文体論』
2017年2月の水曜日の読書会、開催しました。
課題図書は、「街場の文体論」内田樹。
出てきた話題は、書くこと、話すこと、学ぶこと、伝えること、などなど。
一部をご紹介します。
・英語を学ぶことは伝えたいことを言うためではない
・言語は学ぶことの豊かさ
・SNSでの宛先について
・他者の存在
・メタメッセージメインの会話とコンテンツ重視の会話
・どうやって文章を書いている?
・知識をブリッジすることは愛
・語彙の習得の仕方
私は個人的に、どうやって文章を書いているか?興味があって、それをみんなに質問してみました。
・本質、テーマがあって、それを言葉にあてはめて文章をつくる。
・気になる言葉がいろいろ組み合わさって、文章を書く。書いてみて、伝えたいことがわかる。
・いつも内省し、言語化している。その言語化した時間、空間をイメージして、そのときの感覚を思い起こしながら文章にする
・内側の声を聞きながら一息に書く。書き出したときには、書き終えるところまでみえていて書く。
書き方のパターンと、その方が話すパターンは似ているなあ、とも思いました。
これは今書きながら思ったこと。
そう、私は2つ目のパターンです。
読書会が終わって、私は書くことで発見することが多々あるのだから、もっと日常的に書こう、と思っているところです。
普段Twitterでつぶやくことも、単なる垂れ流しじゃなくて、内省を言語化する作業に変えてみようかな、とも思ったり。
とにもかくにも「書く」ことが、次回の読書会までの個人的なテーマになりそうです。
身体性のこと
ここのところ、「身体性」という言葉がずっと気になっている。
先日、「この世界の片隅に」という漫画を読んだ。
映画が公開されてからというもの、友人たちの間で話題にのぼっており、
映画と漫画の違和感について語る会が開かれたりもして、盛り上がっていたのだ。
評価の高かった漫画の方を読んでみた。
漫画なのに、なかなか読み進められない。読むのは割と速い方なのに、なんでだろう?と思っていた。
この世界の片隅に ようやく読了。戦時下を想像するだけで、胸がざわざわして、最後まで読むのだけで精一杯。映画どころじゃなかった。昔から戦争ものは苦手で、知る必要があるから読まねばと思うものの、身体が拒否する。とにかく怖いし、泣きたい気持ちでいっぱいだ。
— eriie (@eriielog) 2017年1月26日
そうだった、私、戦争もの苦手だったんだった。
想像するだけで戦時下をバーチャル体験してしまい、恐怖感と絶望で動機がするのだ。
皆とこの物語について語りたかったけど、だめだなー、こりゃ。いかんせん、ざわつきすぎる。動悸がしそう。これだけは、小さい頃から変わらない。自分の前世に戦時下に生きた人がいたんじゃないかとすら思ってしまう。それぐらい、身体が全身で拒否するのだ。#この世界の片隅に
— eriie (@eriielog) 2017年1月26日
というわけで、映画は観ないまま、今に至っている。
この、身体の奥底からくる「ざわざわ感」。
小さいころ、学校で戦争のことを扱うときには、必ず感じた。
戦争のことを知る必要があるのはよくわかるが故に、
このざわざわを感じるのが申し訳ない気持ちも、必ずくっついてきた。
人間の防衛本能なのだと思う。戦争という危機を回避する力。
想像することさえ、身体は拒否するのだ。
人間の五感は、危機を回避するためにできたと聞いたことがある。
たとえば嗅覚。
花の良い香りを嗅ぐ力が落ちても、腐っているものは臭いと感じるようにできている。
たとえば味覚。
高級フレンチの良さはわからなくても、冷蔵庫の奥で腐りかけてているものはまずいとわかる。
腐っているものを食べたらお腹を下してしまうからだ。
これが身体の危機。危機を回避するのは、人間の本能だ。
そして、先日の読書会でも、似たような体験をした。
約2時間程、生命倫理について皆で話した後に、充分な議論がなされないまま既に世界では倫理が侵されつつあることを知った。具体的な内容は言及を避けるが、社会に障害者は不要だ、とのメッセージにようにも解釈できるようなことが、バイオテクノロジーの進歩の裏側で、起こっていた。
ぞっとして、寒気が襲ってくる感じ。両手で両腕を思わずさすった。
身体性。
— eriie (@eriielog) 2017年1月29日
なにかに触れたときの、気持ち悪さ、怖さ、もやもや、ざらっとする感じ。
危機を回避するための、本能。
クローン羊のドリーが作られた理由にぞっとした感覚。
頭で考えるより先に、そこに危機がある、と反射的に身体が感じる。
これって、すごい能力だよね…。
生命倫理とバイオテクノロジーの間で起こってくる様々な問題について考え始めたばかりで、まだ答えは出ていないけれど、この感覚を大事にしようと思った。
危機を回避する能力は、もともと人間がもっている本能なのだから、ぞっとする感覚を感じたら、きっとそれは倫理を犯している。
重くなっちゃったな。閑話休題。
そんなわけで、このところ、身体で感じるものに重きを置いている。
身体そのものも大事だな、ということで、今年は身体づくりも始めた。
(#身体づくり でつぶやいてます)
まずいものだけじゃなくて、おいしいものもやっぱり味わいたい。
危機だけじゃなくて、嬉しい、楽しい、も全身で感じたい。
人間が魂だけじゃなくて、なんで身体という物質があるのか?とか、
また頭で考えそうになるけど、それは散歩しながら考えよう。
『いのちを”つくって”もいいですか?』 島薗進
ちょっとどきっとするタイトル。
「いのちを”つくって”もいいですか?」の読書会に参加してきました。
本を読んだ直後の感想は、とにかく「もやもやする」。
正しい解答がないけど、考えることを放棄してはならない内容だけに、更に考える。でも、どうしたらよいか、やっぱり答えがでない。でも、将来的に確実に答えが必要なものだと分かっているから、もやもやするわけです。
この本を読んだ後の私の命題は「出生前診断で障害があるとわかった時、自分は生み育てることができるか?」ということ。
社会全体のこととして、障害者がより生きやすい環境が必要だね、って思う一方で、出生前診断で障害を持つ可能性があると診断されたら、自分ならどうするんだろう?と思う。生み育てる選択を、果たしてできるだろうか?
まだまだ先の話のように思えるバイオテクノロジーの先端技術だけど、実はすでに始まっているものがある。それは出生前診断。具体的な数字を知り、現実がひたひたと知らないところで進んでいることに、おののく。
海外だとそれは更に顕著で、イギリスやフランスの例を聞いて、ぞっとした。
出生前診断を受け、陽性の人が中絶する率が高くなることで、ダウン症の子が減っているという。
そこには、障害がないことが良いことだ、という前提がある。それは、誰が決めたのだろう?
生まれてはいけないいのちがあるのか?と問うたら、ない、と答えるのがよしとされる社会なのにも関わらず。
でも、そこでまた、最初の命題に戻るのだ。
自分の子どもが障害を持つと妊娠中にわかっていたら、果たして生む決断をそのときに私はできるだろうか?障害があってもいい、と思えるだろうか?
ひとりだと同じところでつまづいてしまうこの問いに、他の参加者さんの発した言葉は、こうだった。
生む、と決断できないのは、不安だからだよね。
その子が安心して育つことのできる社会って、どんなところだろう?
そんな意見を聞いて、はっとした。
どういう社会なら、障害があっても、生み育てられる、と思えるだろう?
そんな風に考えたことがなかったから。
そうか、障害児を育てることに不安のない社会だったら、生もうと思えるかもしれない。
そして、すでに健康な子どもがいて、今後妊娠の予定がない自分には、この命題にどんな答えを出しても、当事者として悩む必要のない自分であるがゆえに、きれいごとの答えになってしまうと思いこんでいたけど、そうじゃなかった、と思った。
この社会の構成員である限り、当事者なのだ。
別の参加者さんが言っていた。「みんな当事者なんです」って。男性も女性も老いも若きも、みんな社会の構成員。今すれ違った人が、正に障害を持っている人かもしれない。目の前の人の家族が、障害を持っているかもしれない。つながっているいのち。
どんな社会で生きたいのか、それには自分は何をしたらよいのか。
そこを考えて、身近なところから行動することが、私の命題の答えになる。
遠回りなようだけれど。
答えのヒントが得られたことが、大きな収穫でした。これは、真剣にこのことを考える時間をとれた成果。ひとりではなく、9名で、真摯に思考を重ねた結果。
私以外の皆さんも、きっと何かみつかったのではないかな。
この場を開催してくれた主催のお二人に感謝。
そして参加者の皆さま、真摯な2時間の思考タイムを共有してくださってありがとうございました。
開催しました*水曜日の読書会2017.Jan 『おとなになるってどんなこと?』
2017年1月の水曜日の読書会、開催しました。
課題図書は「おとなになるってどんなこと?」吉本ばなな。
参加者は私を含む6名。
子ども向けに書かれた本なので、さらさらっと読めてしまうけど、一人だとつい読み飛ばしてしまうところも、複数の人数で読むことで1つ1つの言葉の意味が深まります。
言葉の意味自体はわかるので、ついわかった気になって読んでしまうけど、よくよく考えてみると、これってどういうこどなんだろう?っていう疑問を皆に問いかけてみるところからスタート。
一人で読んでいたら疑問のままで終わってしまう箇所を、この意味わかるよー、とそれぞれの解釈をシェアしあい、そこから派生して「ここの部分はこう思った」「てことはこれってこうなのかな?」「私のあのときの経験はこのことかも」「あ、そっか、そういうことか」「それってどういうこと、もっと聞かせて?」などなど、ひとつのテーマを軸に話は広がり、過去にさかのぼり、聞いてほしかった話を聞いてもらったり、受けとったりしながら、みんなで舟をこぐように進んでいきました。
話しているうちに別のエピソードを思い出して、「えっとそれはこのページの~」と皆で同じページを開いて本に戻り、お互いの感想を聞き、またそこから話が広がり、の繰り返し。
それはそれは流れるようにとめどなく進み、本の中をみんなで舟に乗ってゆらゆら旅をした、そんな時間でした。
参加者さんから頂いた感想をご紹介します。
高橋ライチさん
水曜日の読書会 ~本「おとなになるってどんなこと」~|カウンセリング・心理学をもっと気軽に日常に!ライフワークを生きながらパートナーも子育ても大切にしたい女性のためのブログ
一部抜粋
そして同じ本を持ち寄って6人で対話。
それぞれの人の心に響いた箇所、
未消化な箇所について、
誰かの問いに答えたり
誰かの記憶の風景を感じたり
それに想起された自分の何かを言葉にしようとこころみる。
この相互性。
一緒にいるけれど
別々の私たちでいることが許される空間。
ああ、気持ちよかった。
ばななさんは「『おとな』になんかなろうとしなくていいんだよ」
という言い方をしているけれど
私は「『おとな』になるって豊かなことだ」と強く思った。
『子ども』の時は『子ども』であるだけだったけど
今は『おとな』の自分を相棒にした、最強の『子ども』である自分がここにいる。
『おとな』になろうとする時に、『子ども』の自分を置いてきちゃうと、途中でしんどくなる。
気づいたら、迎えにいこう。
悠木レニさん
この読書会で、ステージが変わった!と思える変容がありました。
自分らしくを貫くステージが終わったな、と思えたんです。
今までは自分がぐらぐらしてたので、貫くことで精一杯だったけど、今は太い芯ができてきたので周りに合わせることができるな、と。
(中略)
みんなで同じ本を読むと想像を越えた飛躍がある。
この変容をもたらしてくれた文章も、
みんなで内容を深めてはじめて気づいたところだったから。本っていいなあ
宮袋さおりさん
第七問 生きることに意味があるの?
読書会に参加しました。
課題図書は吉本ばななさんの「おとなになるってどんなこと?」
そのなかの一文。
「辛かったり、苦しかったり、面倒だったりするのは、充分に生きていない状態だからです」
読んだときに浮かんだものは、
「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか?」
「あなたの(私の)今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのですか?」
という自分への問いでした。
充分に生きていないこと。
それは、自分を生きていないことを示している。苦しかったり、面倒だったりは他者への責任転換ではなく、自分を見つめるサイン。と感じたのです。
やりたいことはなあに?ってね。
「なにをするために人は生まれてきたかというと、それぞれが自分を極めるためだと思っています。」ともばななさんは書いてらして、それと合わせて心にささっている。
言い切りと思いますの文章。その対比を含めて。
吉本ばななさんの本は、好きで、心の片隅にいつもあって、あ!この感覚知ってると思ったり、祖父の葬儀へと向かう車中で読んだ「ジュージュー」だったり、ドトールのハニーカフェオレを飲むと思い出す「サウスポイント」だったり。
なかったことにされてしまうものたち。が浮かぶ「哀しい予感」などなど。
くくっと、思い出しては読み返したり、心に残るフレーズを取り出してみたり、しまったりなのが、本との付き合い方だっだので読書会として、みんなで共通の本を話すのが新鮮な体験でした。
おとなになるってどんなこと?
結論なんて、ないけども。
わたしは大人で、わたしの中の小さなわたしを抱きしめてあげられる。
それだけ。
そして、「どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」という自分への問いとともに、やりたいことを、しのごの言わずにやりたい。
私は当日、自分の過去のエピソードがいかに自分を縛っているかに気づいて、もう一度、自分の子ども時代をふりかえってみよう、と思ったのでした。そして、参加してくれたみなさんが、10才の私の話を聞いてくれたことが、とても嬉しかったなあ。そのときのみんなの表情が、とてもとても慈愛に満ちていて、忘れられないのです。聞いてくれて、ありがとう。予期せぬギフトでした。